20歳と38度線

朝鮮半島に関心のある大学生の日常。

38度線の書き方と農業

ニッコリの38度線平和活動のときの話です。

 

私は、村で生活する7日間のうち、2回農業活動に参加しました。

 

1日目はトマト畑で剪定作業、

 

2日目はブルーベリー畑で雑草抜きをしました。

 

 

北朝鮮との軍事境界線沿いの畑で行うので、

 

毎回韓国軍の検問を通って民間人統制区域に入ります。

 

 

畑を背景に軍人が銃を持つ光景は、7日間いてもさすがに慣れませんでした。

 

 

 

1日目、畑に到着するやいなや通されたトマトのビニルハウスが

 

 

 

想像よりはるかに大きくて、

 

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本格的すぎて、

 

 

整備されすぎていて、

 

 

私は戸惑いました。(ベルトコンベアまであった) 

 

 

38度線沿いの農村と言われると、

 

 

極貧農村を思い浮かべていたからです。

 

 

 

プロパガンダというものは怖いものだなとつくづく思いました。

 

 

 

立派なハウスに感心していると、 

 

 

 

「こっちにきて」とおばさんに外に連れていかれ

 

 

中くらいのハウスの作業をたのまれました。(ちょっと残念)

 

 

私は、気持ちを切りかえて剪定バサミと軍手を装備し、戦闘体制に入ります。

 

 

実家が農家の私は、農作業歴=年齢なので

 

 

トマトの剪定など朝飯前の前。

 

 

前半は、ちょいちょい同じ班の友達と話しながら楽しく作業していましたが、

 

 

 話すこともなくなった後半は無心で手を動かしました。

 

 

 お尻につけるクッション椅子(ものすごく便利)のアシストもあり、
 

 

私の作業スピードは友人の3倍の速さ。

 

 

友達がひと畝の半分まできたころ、

 

 

私はひと畝終わっておりかえし、隣の畝を逆側から攻めて、友達を迎えに行くくらいでした。

 

 

いつかの陣取りゲームのように躍起になって頑張って、

 

 

ここが38度線であることは忘れていました。

 

 

 

 

 

農作業2日目、朝早く私たちを迎えに来たのは、地雷被害者の農家さんでした。

 

 

38度線付近は、村があり、人も住んでいますが、朝鮮戦争時の地雷が残る地雷原でもあります。

 

 

地雷原と居住区域は一応分けられていますが、

 

 

まだ地雷が見つかっていない場所であったり、

 

 

雨水が地下を流れるのと一緒に地中を地雷が移動したりして、

 

 

民間の方が地雷の被害にあうこともあります。

 

 

 

 

 数十年前、その地雷によって体が不自由になった農家さんと私たちは、

 

 

地雷が埋まっている山を背に、

 

 

兵士が埋まっているかもしれない山を背に、

 

 

楽しく話しながらブルーベリー畑の草抜きをしました。

 

 

 

作業が終わった直後、大粒の雨が降ってきて、農家さんの家で雨宿りをしました。

 

その時に、畑でとれたブルーベリーや甘くて大きなスイカをご馳走になり、

 

このまま雨が続けばいいのになとも思いました。

 

  

実際はそんなわけにもいかないので、農家さんに宿舎までトラックで送り届けてもらったのですが。

 

 

 

 

宿舎への道の途中、助手席に座る私に農家さんがこう言いました。

 

 

「この川は、北から流れてきてるんだ」

 

 

当たり前のように、さらっと流れ出た言葉に、何も感情はこもっていませんでした。

 

 

 

 

人間が引いた一本の線で、自然は何も変わりません。

 

雨水一粒が線のどちら側に降ろうが、川は流れ、土は流れ、

 

その水は海へと流れ込みます。

 

 

 

 一本の線で変わるのは、私たちの世界です。

 

 

65年前に引かれた一本の線で、

 

今も

 

半島が、

 

警備兵の体が、

 

農家さんの体が、

 

二つに別れています。

 

 

 

おそらく元には戻らないこれらの分断線は

 

 

線を引いた私たちしか消すことができません。

 

 

この分断線を国境にすることも私たちにしかできません。

 

 

38度線をどのような線にするのか。

 

 

次にどんな線を書くのか。

 

 

その選択は、ペンを握る私たちにしかできないことなのです。