20歳と38度線

K-popと政治問題だけでは語れない朝鮮半島について書いています。

日本人留学生がソウル新聞に載るまでの話

「先輩、怖くないですか?」

 窓の外で行われていたイベントやデモのことを指して、彼女は確かにそう言った。2019年3月1日。韓国の人々が大日本帝国からの独立を叫び始めてちょうど100年後の光化門のカフェだった。

 そのほんの30分前、私は彼女が怖いと言ったイベントに参加し、広場の真ん中で韓国人と一緒に旗を振っていた。そうねぇ。言葉を濁して紅茶をすすった。知らなければ怖いかもね、と後には続けなかった。

 英語で韓国留学をしている彼女は、三・一独立運動を記念する日に光化門駅前の大型書店に洋書を買いにきていた。外務省のサイトに登録していれば、在韓日本人には光化門に近づかないようメールが来ていたはずだ。見なかったのだろうか。それとも大丈夫だと思ったのだろうか。
 日本外務省から3・1節と光復節の度に送られてくるメールは“危険回避”よりも“不快回避”の意味合いが強いと私は思っている。現代の韓国で日本人だからとデモ隊に襲われることはないからだ。デモを偶然見かけた日本人が不快に感じる確率のほうが、ずっと高い。

 韓国に住んだり、韓国関係のコミュニティに所属したりすると、日本で生まれ育った人は多かれ少なかれ日韓の歴史認識の差に違和感を抱くだろう。友人との会話の中で、学校の授業中に、はたまたテレビや映画を見ていて......。植民地を“支配した国”と“支配された国”という、それぞれの立場から生まれた認識の差は、日常の小さなつまずきとして予想より多くの場所に転がっている。

 そんな“つまずき”に足を取られた時、人によっては「どうしてあんな言い方をするんだろう」と疑問に思ったり、「私は悪くない」と一瞬怒ったりするかもしれない。だが、だいたいは忙しい日々に引っ張られ、すぐ忘れてしまう。小石が動かさない限りずっとそこにあるように、忘れた頃にまたつまずき、「そういえばここにあった」を繰り返すだけなのだ。

 でも、幸か不幸か学生の私には好奇心があった。留学生になってからは時間があった。他の人よりちょっぴり行動力がある私は、この「なぜ私が不快な思いをしなければならないのか」という疑問に向き合い、スッキリしない歴史認識の差を埋めるために当時ソウルを駆け回っていた。その日も市民活動家のオンニ(韓国語で親しい年上の女性を指す)にくっついて、いろんなイベントを回り、歴史の息吹を肌で感じようと外務省の優しいメールを無視して光化門にいたのだ。

 私は運よく疑問を解きほぐしてくれる人たちに出会えたので、知らないことから来る恐怖を取り除くことができた。また、一応韓国語ができたため、彼らの主張を聞き取ることができたし、無知な学生であることを盾に「どうして?」「なぜ?」と彼らに質問できた。反対に「日本人はどうなの?」と聞かれた時は、「日本人全員が私のように考えているわけではない」という前置きをして、思ったことや考えをたどたどしい韓国語で相手に伝えることができた。

「でも、それができない人はどうするのだろう」

 彼女と別れた帰り道に、この前抜け出したばかりの生温かい恐怖を思い出してみた。目の前にある違和感の正体を知ることができない。知る方法があったとしても、言葉が分からなかったり時間がなかったりで、情報を手にすることができない。彼女は、私が日本で所属していたサークルの後輩だった。日韓関係の勉強会でたまに見かけたので、おそらく歴史に興味がないわけではないはずだ。でも留学という限られた時間で、時折つまずく石ころを避けるためだけに、わざわざ1つの言語を獲得したり当事者に会いに行ったりはしないだろう。だって彼女にも、そして誰にでも、私の好奇心と同じくらい大きな “留学でやりたいこと”が、きっとあるのだから。

「せめて、知りたいと思った人だけでも、歴史に手軽に触れられる環境があればいいのに」

 そう思って、自分で作ることにした。彼女のように、政治的な行動を怖がったり、日韓問題から距離を取ってしまう日本人留学生はたくさんいるだろう。政治を語ることがタブー視される日本で育ち、都会の特殊な地域に住んでいなければデモを実際に見ることもない。私も韓国に行くまで、ニュースでしかデモを見たことがなかった。K-popを含む韓流ブームのおかげで、韓国へ留学する日本人は年々増えており、調べると2019年時点で4000人の大台に乗っていた。(参照:韓国教育開発院) 日本からの留学生が増えれば、それだけ日韓の間でモヤモヤする人が増えるはずだ。

「それなら、日本人が歴史のモヤモヤを共有できるサークルを作ろう」

 そう思い立って、翌日にはサークルの名前まで決めていた。正式名称は「植民地の記憶の場所にみんなで行ってみよう会」、略して「みん会」だ。かつて韓国が日本と呼ばれていた時代にどんなことが起こったのか。それを知るために、ソウル近郊の日本統治時代に関連する場所に足を運ぶ。モヤモヤの原因に直接触れに行き、思ったことをみんなで共有するのだ。

 歴史の知識がない人でも気軽に参加できるように、活動は体験型のフィールドワークにした。フィールドワークと言っても、実際することは「行く・見る・聞く」しかない。難しいことはわからなくてもいい、ただ歴史に触れる体験を作る。討論や勉強会もしない。参加するのに予習も必要ない。参加者は、事前に出席代わりのグループチャットにスタンプを押して、集合場所に行くだけでOKだ。

 3・1節の日、光化門を走り回って確信したことがあった。韓国の市民団体の人たちは、あの時代韓国や韓国人に起こったことを日本の人たちに知ってもらいたいと思っている。日本を変える力を一番持っているのは、日本人だからだ。実際に会いに行くまでは、私も「怖い」という感情がゼロではなかったけれど、完璧な杞憂だった。聞けば、いくつかの博物館や施設では日本語でのガイドを無料で行っているという。これを利用しない手はないと思った。

 日本人がモヤモヤを共有することが活動の目的だったので、参加者が言葉を選んだり吐き出すのに躊躇しないよう、サークルの公用語は日本語にした。さらに、フィールドワークの感想を共有する時間では「絶対に否定しない」というルールを設けた。見聞きしたことを「どう感じるか」に正解は無いからだ。また、みん会自体は特定の主張を持った政治団体ではないので理念も掲げない。場所に行き、専門家に話を聞き、ただ参加者がモヤモヤを自分で言語化する。韓国人の友人の前では言えない悩みを、安心して共有できる場所を作る。それが、みん会のスタートだった。

 「今度こんな活動を始めるんだ」と周囲に言うと、意外にも参加したいという韓国人が多かった。あくまでも日本人のモヤモヤ共有がサークルの目的だったので、韓国人がいると日本人の参加者が委縮してしまうのではと心配した。だが、一言に韓国人と言ってもいろんな背景をもつ人がいる。歴史を扱う団体がメンバーを国籍で排除すべきでないと判断し、日本語が話せれば誰でも入会できるようにした。

 1人で始めたことだし告知も個人のSNSだけで行ったので、初回の活動に3、4人集まればいいほうだと思っていた。しかし、第一回目のフィールドワークには予想の4倍の14人が参加した。「みんな機会がないだけで歴史を知りたがっていたのか」と嬉しい悲鳴を上げながらバタバタと調整に追われたのを覚えている。

 1学期の間に、ソデムン刑務所ナヌムの家植民地歴史博物館徴用工の記念墓地を巡った。参加者も毎回バラバラだったけれど、感想共有タイムで「参加してよかった」と聞くと素直に嬉しかった。また、感想としてみんないいことを言うので、議事録を書き起こしながら目に涙を溜めることもあった。

 活動を始めて何より良かったことは、色んな人に出会えたことだ。日本人留学生、韓国人学生はもちろんのこと、韓国で暮らしている一般の日本人の方や、活動に協力していただいた市民活動家、解説員、研究者の方々。留学生という身分を生かして「こういう活動をしたい」と言うといろんな人が縁をつないでくれた。結果的に日韓問題としてよく挙げられる慰安婦、徴用工、植民地支配という題材に1学期で触れることができた。協力してくださった方、参加してくださった方々にとても感謝している。また個人的にも、1つのコミュニティーを作り、活動をデザインするという経験はとても貴重だったし、何気にすごいことをやってたんじゃないかと今になって思う。
 私の活動を横で見ていた友人が、みん会を「種をまく活動」と表現したことがある。みん会を通りすぎていく人々が、それぞれ体験を一つ得て、誰かはそこから何かを始めるかもしれない。地味に見えるけれど、その始まりの種をあなたは撒いているのだと。本当にそうであったらいい。

 学期最後の活動を行った後、みん会のメンバーは30人ほどに増えていた。運営は私一人でやっていて、私の帰国と同時にみん会は解散するはずだった。「少しもったいないな」と思ったので、あまり期待せずに次の運営者を募ってみたところ、2人が手を挙げてくれた。

 気軽に参加できることがみん会の一番の特徴だ。活動のすべてが1回参加を前提に企画しているためメンバーの所属意識は低く、団体として人数は多くても熱心に毎回参加してくれる人は少数派だった。基本的に私が好きでやっていたので、2人が名乗り出てくれたときは「みん会を必要としてくれる人がいたのか」と感動した。ありがたや~ありがたや~と感謝の気持ちいっぱいのまま運営をバトンタッチし、私は日本へ帰っていった。

 今でも、みん会はソウルで活動を続けている。コロナのため2020年夏から活動を休止していたが、韓国で大学サークルの活動制限が解除されたのを機にこの春からまたメンバーを募集している。過去の活動記録は公式ブログで、入会希望や問い合わせはTwitterのDMにて受け付けている。ぜひ興味のある人は軽い気持ちでメッセージを送ってほしい。

 新聞にはいつ載ったのかというと、帰国後だ。日本と韓国の学期始まりのずれで長い夏休みを過ごしているところに、知人から講演の依頼が来た。日韓の新聞社記者の勉強会で、学生たちが今どういう活動をしているのか話してほしいというものだった。日本で所属していた日韓ボランティアサークルの代表に声をかけ、私もみん会の話をした。そのつながりで記者の方から取材を受け、私の人生初のインタビューが韓国語で掲載されたのである。

 新聞の発売日、ソウルにいた知り合いが10部以上買って日本に送ってくた。実家用と自分用の2部を手元に残して、あとは活動を共にした友人たちに送った。東京、愛知、茨城……宛先のちぐはぐさが不思議だった。歴史の場所を訪れるという濃い経験を共にしたので、ずっと前から知り合いのような気がしていたのが、帰国後住んでいる場所を見ると実際は違うようなのだ。

 つい先日、引っ越しをした。6年間付き合っている彼氏と同棲するためだ。さすがに2人の部屋にアイドルポスターを貼るのは気が引けたので、ポスターを入れていた額縁だけを持ってきた。何も入れないでおくのはもったいないと、整理していた時に出てきた例の新聞記事を試しに入れてみた。12人という大所帯のグループをしっかり囲っていただけあって、額縁は新聞紙を入れても半分ほどの余白が残った。

 額縁を立てると片方にずり落ちてしまう記事を眺めながら、私は安心していた。もしピッタリはまっていたら、過去の栄光のようにどこかに飾ってしまいそうだったからだ。結局、額縁は物であふれるクローゼットに入りきらず、今はリビングのギタースタンドの裏に立てかけてある。掃除の時にギターをどかすと、紙面びっしりのハングルの上にハルモニと撮ったみんなの写真が顔を出す。みんなといた2019年。走り抜けた春と夏。私の留学をそこでしっかりと刻んでくれている。