20歳と38度線

K-popと政治問題だけでは語れない朝鮮半島について書いています。

ハヌル便にのせて送る手紙

住みなれた国を離れるからか、昔のことをふりかえることが最近は多くなった。

 

昔といっても、20代前半の若者が言う「昔」とはせいぜいここ2、3年の話で、

 

2年前の冬の写真を見て「懐かしい」と叫んでいられる期間限定の恩恵をありがたく噛みしめているところだ。

 

アルバイトが休みの代わりに、私の元を離れる人や、私が離れる人に向けて贈り物や手紙を書き始めたのも原因かと思う。

 

「思いは言葉にしなきゃ」

 

という異文化圏の友人たちから学んだ最大の助言を実行中だ。

 

 

もともと、誰かのために文章を書くというのは苦手だった。

 

幼い頃から文章を書いていたのだが、すべては自分のためで、

 

書きためた方眼ノートは静かに引き出しの奥にしまっていた。

 

大きくなって、みんなから褒められることを覚えた後も、

 

誰かに宛てて文章を書くというのは未だに苦手である。

 

苦手であるから、手紙を書き始めたここ1、2年も自分が満足する内容のものは1つもかけていない。

 

そのうち、恋人の記念日のたびに半分義務感から書くようになった手紙は、私にとって文章ではなく「本当は会って伝えたい言葉」をただ紙に書き記す作業になった。

 

 

 

昔書いた手紙の中に、まだ出せていない手紙がある。

 

2年前の夏に釜山の短期留学で出会った人に宛てた手紙だ。

 

彼は背が高かった。

 

一緒に外国で一夏を過ごした、といえばかなり親しい間柄に聞こえるが、

 

その時、釜山には日本からの学生が大勢訪れていたし、正直言うと二言くらいしか話したことがなかった。

 

それなのに、帰国後の冬に文学の授業の課題でその人について書いてしまった。

 

こっぱずかしいのと勝手に題材にしてしまった罪悪感とで、住所がわからないのを理由にそのことを伝えないでいる。

 

先日、同じ釜山で出会った友人に偶然再会し、当時の仲間でまた集まることになった。

 

 

当時、彼と一番仲がよかった韓国人の先輩が笑顔で彼のことを話しはじめた。

 

「この前、まさと(仮名)のお母さんに会ってきたんだ」

 

皆一瞬、言葉に困ったが、先輩の明るい口調にみんなの目がゆるくほどけた。

 

思い出せば、2年前の夏もまさとさんの話をするとき、みんなの目は優しかった。

 

それは彼自身が、優しさからできているような人だったからだと思う。

 

ボクシングをする人で、嫌がる様子を1ミリも見せず、自己紹介でシャドウを披露したらしい。

 

「それがものすごいの」

 

と隣のクラスだった私は人づてに聞いた。

 

私との貴重な2回目の会話の時も、まさとさんは優しかった。

 

みんなでおしゃれなカフェに行った時、遠くに座った私が、まさとさんの注文した名前の長いコーヒーを物欲しそうに見つめていた。

 

それに気づいたまさとさんは、自分が飲む前に

 

「一口いる?」とストローを抜いて渡してくれた。

 

人の厚意は素直に受け取る派の私は、悪びれもせず自分のストローを刺して貴重な最初の一口をぐびぐびっと飲み込んだ。

 

まさとさんは笑って私を見ていた。

 

 

そんな具合だったので、その年の冬、先輩から連絡が来た時は驚いた。

 

「まさとの葬式に行ってほしい」

 

今でも文面に違和感を覚えるほど、釜山の太陽の下で見たまさとさんはみずみずしかった。

 

訳がわからないまま、夏の仲間たちと連絡を取り合い、よく知らない駅で待ち合わせをした。

 

大学生で喪服を持ち合わせている人はおらず、チグハグな黒が集まっていた。

 

一種の興奮状態に陥っていた私たちは、予想よりずっと長かった式場までの道を慣れないヒールで歩いた。

 

とりとめもないことを話す余裕がまだその時にはあった。

 

エレベーターのドアが開くと、狭い会場に私たちと同じ年くらいの人たちがスーツ姿でたくさんいた。

 

トイレに行くとすすり泣きしている女の人がいた。

 

同じ悲しみを共有しているはずの、会ったことのない人たちを、私は不思議に見つめてしまった。

 

香典を見様見真似で書き、お別れを言う長い列の一番後ろに並んだ。

 

私の背が小さいので、全く前は見えなかった。

 

式場の中に入った後も、背伸びをして前の様子を必死に伺った。

 

でもやっぱり何も見えなかった。

 

2人前の人が前へ進んだ時、やっとまさとさんの顔が見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は無言で、彼の顔の横に、そっと花を置いた。

 

 

 

 

 

 

 

帰りは、歩く気力もなくて、みんなで駅までタクシーに乗った。

 

「早すぎだよね。。。。」

 

涙がやっと乾いた顔で、みんなありきたりなことしか言えなかった。

 

 

1人暮らしのアパートに帰っても、しばらくはぼーっとしていた。

 

 

ぼーっとしつつもまさとさんが横たわった姿は脳裏に焼きついたままで、

 

 

私が記憶しているまさとさんの姿とは1ミリも重ならなかった。

 

 

本当に、あれはまさとさんなのか?とあとから疑問が湧くほどだった。

 

 

どう考えても、どう遡っても思い出すのは、

 

口が半分開いて頬がこけた薄土色のまさとさんではなく、

 

 

こんがりと日に焼けて拳を勢いよく突き上げるまさとさんなのであり、

 

 

誰かがおどけてみせる時に、一番後ろで静かに笑っているまさとさんなのであった。

 

 

そう思った瞬間、私はすでにノートパソコンを開いていた。

 

 

泣きながら、パソコンを打っていた。

 

 

普通の文章にはまとめきれなかったから、短く乱暴に短歌にした。

 

 

そうやってできた10首を、私は締め切りが近かった授業の課題として提出してしまったのである。

 

 

自分で解説する時には、危うくみんなの前で泣きかけたし、

 

ファンタジー色が強い作品が多い中で、一つだけ異彩を放っていた。

 

そのお陰で先生には褒められたのだが、

 

それから私は1人どうしようもない罪悪感を、心臓一つ分背負うようになった。

 

それが2年間消えなかった。

 

ご家族に思い切って送ってみようかとも思ったが、

 

まだ悲しみから立ち直っていない中では迷惑ではないかと、

 

知らない人から短歌が送られてきても気持ち悪いだけだと、

 

どうしようもできずにいた。

 

 

 

それからしばらくして、私はここで文章を書くようになった。

 

とりとめもないことを、小さな宝箱から一つ一つ机に並べるように、

 

宛先のない文章をここで書くようになった。

 

 

 

重荷を、今ここで下そうと思う。

 

今読み返すと不恰好のこの10首が、

 

誰かの心に届くとは到底思えないけれども、

 

 

 

住所不定のこの手紙が、

 

韓国と日本の間にある海より小さくて、

 

どこまででも流れる未来の波に乗って、

 

世界のどこかにいるまさとさんだけに、届きますように。

 

 

 

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『空(ハヌル)便にのって』       

 

隣の国からたよりです子どもを亡くした母からです

 

棺桶にたおれた体は誰のもの根元を切られた白に溺れて

 

15分22年の思い出をつぎはぎ並べたショートビデオ

 

良い人と口を揃えて人が言う私の時は言ってくれるな

 

ぶらんぶらん 赤いグローブ 千の数珠 合宿のTシャツ 庭のブランコ

 

死の音はシクシクポクポクシーンよりからからざーざーぼーんぴしゃっ

 

憶えてる時速200キロ滑走でふり切れなかった君の蒼さを

 

1月7日の帰り道君の嫌いなトッポキを食べた

 

百年後あさひと湯気をたずさえて迎えにくるのが君だったらいい

 

海雲台(ヘウンデ)と東の海を越えたとこそちらの天気はどうですか