20歳と38度線

朝鮮半島に関心のある大学生の日常。

ハヌル便にのせて送る手紙

住みなれた国を離れるからか、昔のことをふりかえることが最近は多くなった。

 

昔といっても、20代前半の若者が言う「昔」とはせいぜいここ2、3年の話で、

 

2年前の冬の写真を見て「懐かしい」と叫んでいられる期間限定の恩恵をありがたく噛みしめているところだ。

 

アルバイトが休みの代わりに、私の元を離れる人や、私が離れる人に向けて贈り物や手紙を書き始めたのも原因かと思う。

 

「思いは言葉にしなきゃ」

 

という異文化圏の友人たちから学んだ最大の助言を実行中だ。

 

 

もともと、誰かのために文章を書くというのは苦手だった。

 

幼い頃から文章を書いていたのだが、すべては自分のためで、

 

書きためた方眼ノートは静かに引き出しの奥にしまっていた。

 

大きくなって、みんなから褒められることを覚えた後も、

 

誰かに宛てて文章を書くというのは未だに苦手である。

 

苦手であるから、手紙を書き始めたここ1、2年も自分が満足する内容のものは1つもかけていない。

 

そのうち、恋人の記念日のたびに半分義務感から書くようになった手紙は、私にとって文章ではなく「本当は会って伝えたい言葉」をただ紙に書き記す作業になった。

 

 

 

昔書いた手紙の中に、まだ出せていない手紙がある。

 

2年前の夏に釜山の短期留学で出会った人に宛てた手紙だ。

 

彼は背が高かった。

 

一緒に外国で一夏を過ごした、といえばかなり親しい間柄に聞こえるが、

 

その時、釜山には日本からの学生が大勢訪れていたし、正直言うと二言くらいしか話したことがなかった。

 

それなのに、帰国後の冬に文学の授業の課題でその人について書いてしまった。

 

こっぱずかしいのと勝手に題材にしてしまった罪悪感とで、住所がわからないのを理由にそのことを伝えないでいる。

 

先日、同じ釜山で出会った友人に偶然再会し、当時の仲間でまた集まることになった。

 

 

当時、彼と一番仲がよかった韓国人の先輩が笑顔で彼のことを話しはじめた。

 

「この前、まさと(仮名)のお母さんに会ってきたんだ」

 

皆一瞬、言葉に困ったが、先輩の明るい口調にみんなの目がゆるくほどけた。

 

思い出せば、2年前の夏もまさとさんの話をするとき、みんなの目は優しかった。

 

それは彼自身が、優しさからできているような人だったからだと思う。

 

ボクシングをする人で、嫌がる様子を1ミリも見せず、自己紹介でシャドウを披露したらしい。

 

「それがものすごいの」

 

と隣のクラスだった私は人づてに聞いた。

 

私との貴重な2回目の会話の時も、まさとさんは優しかった。

 

みんなでおしゃれなカフェに行った時、遠くに座った私が、まさとさんの注文した名前の長いコーヒーを物欲しそうに見つめていた。

 

それに気づいたまさとさんは、自分が飲む前に

 

「一口いる?」とストローを抜いて渡してくれた。

 

人の厚意は素直に受け取る派の私は、悪びれもせず自分のストローを刺して貴重な最初の一口をぐびぐびっと飲み込んだ。

 

まさとさんは笑って私を見ていた。

 

 

そんな具合だったので、その年の冬、先輩から連絡が来た時は驚いた。

 

「まさとの葬式に行ってほしい」

 

今でも文面に違和感を覚えるほど、釜山の太陽の下で見たまさとさんはみずみずしかった。

 

訳がわからないまま、夏の仲間たちと連絡を取り合い、よく知らない駅で待ち合わせをした。

 

大学生で喪服を持ち合わせている人はおらず、チグハグな黒が集まっていた。

 

一種の興奮状態に陥っていた私たちは、予想よりずっと長かった式場までの道を慣れないヒールで歩いた。

 

とりとめもないことを話す余裕がまだその時にはあった。

 

エレベーターのドアが開くと、狭い会場に私たちと同じ年くらいの人たちがスーツ姿でたくさんいた。

 

トイレに行くとすすり泣きしている女の人がいた。

 

同じ悲しみを共有しているはずの、会ったことのない人たちを、私は不思議に見つめてしまった。

 

香典を見様見真似で書き、お別れを言う長い列の一番後ろに並んだ。

 

私の背が小さいので、全く前は見えなかった。

 

式場の中に入った後も、背伸びをして前の様子を必死に伺った。

 

でもやっぱり何も見えなかった。

 

2人前の人が前へ進んだ時、やっとまさとさんの顔が見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は無言で、彼の顔の横に、そっと花を置いた。

 

 

 

 

 

 

 

帰りは、歩く気力もなくて、みんなで駅までタクシーに乗った。

 

「早すぎだよね。。。。」

 

涙がやっと乾いた顔で、みんなありきたりなことしか言えなかった。

 

 

1人暮らしのアパートに帰っても、しばらくはぼーっとしていた。

 

 

ぼーっとしつつもまさとさんが横たわった姿は脳裏に焼きついたままで、

 

 

私が記憶しているまさとさんの姿とは1ミリも重ならなかった。

 

 

本当に、あれはまさとさんなのか?とあとから疑問が湧くほどだった。

 

 

どう考えても、どう遡っても思い出すのは、

 

口が半分開いて頬がこけた薄土色のまさとさんではなく、

 

 

こんがりと日に焼けて拳を勢いよく突き上げるまさとさんなのであり、

 

 

誰かがおどけてみせる時に、一番後ろで静かに笑っているまさとさんなのであった。

 

 

そう思った瞬間、私はすでにノートパソコンを開いていた。

 

 

泣きながら、パソコンを打っていた。

 

 

普通の文章にはまとめきれなかったから、短く乱暴に短歌にした。

 

 

そうやってできた10首を、私は締め切りが近かった授業の課題として提出してしまったのである。

 

 

自分で解説する時には、危うくみんなの前で泣きかけたし、

 

ファンタジー色が強い作品が多い中で、一つだけ異彩を放っていた。

 

そのお陰で先生には褒められたのだが、

 

それから私は1人どうしようもない罪悪感を、心臓一つ分背負うようになった。

 

それが2年間消えなかった。

 

ご家族に思い切って送ってみようかとも思ったが、

 

まだ悲しみから立ち直っていない中では迷惑ではないかと、

 

知らない人から短歌が送られてきても気持ち悪いだけだと、

 

どうしようもできずにいた。

 

 

 

それからしばらくして、私はここで文章を書くようになった。

 

とりとめもないことを、小さな宝箱から一つ一つ机に並べるように、

 

宛先のない文章をここで書くようになった。

 

 

 

重荷を、今ここで下そうと思う。

 

今読み返すと不恰好のこの10首が、

 

誰かの心に届くとは到底思えないけれども、

 

 

 

住所不定のこの手紙が、

 

韓国と日本の間にある海より小さくて、

 

どこまででも流れる未来の波に乗って、

 

世界のどこかにいるまさとさんだけに、届きますように。

 

 

 

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『空(ハヌル)便にのって』       

 

隣の国からたよりです子どもを亡くした母からです

 

棺桶にたおれた体は誰のもの根元を切られた白に溺れて

 

15分22年の思い出をつぎはぎ並べたショートビデオ

 

良い人と口を揃えて人が言う私の時は言ってくれるな

 

ぶらんぶらん 赤いグローブ 千の数珠 合宿のTシャツ 庭のブランコ

 

死の音はシクシクポクポクシーンよりからからざーざーぼーんぴしゃっ

 

憶えてる時速200キロ滑走でふり切れなかった君の蒼さを

 

1月7日の帰り道君の嫌いなトッポキを食べた

 

百年後あさひと湯気をたずさえて迎えにくるのが君だったらいい

 

海雲台(ヘウンデ)と東の海を越えたとこそちらの天気はどうですか

 

 

 

 

 

 

 

イバグキル@釜山

  日本大学訪韓団 1日目

 

お昼に金浦空港に到着した日本大学訪韓団第3団は、

 

韓国に降り立ったその足でイバグキルに向かいました。

www.konest.com
 

 

イバグが釜山の方言で「話」、キルが韓国語で「道」という名前のイバグキルは

 

 釜山の昔の記憶・話を保存しておこうと近年自治体によって整備された

 

釜山と韓国の歴史を感じられる散策コースです。

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話を作る場所という意味が込められた案内所「イバク工作所」

 

当時問題となっていた空き家を利用して、それぞれの話の展示スペースを作ったそうです。

 

 

私たちは、ガイドさんの案内でイバグキルを歩きました。f:id:hyun_nako:20180317180035j:plain

 

イバグキルがある地域は、朝鮮戦争の避難民が住み始めたことで居住区となり、

 

急な坂と細い路地が複雑に絡み合う様子は、当時の掘っ建て小屋の面影を感じさせます。

 

朝鮮戦争から始まるこの道の歴史を聞きながら、私は映画『国際市場で逢いましょう』を思い出していました。

 

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展望台からの眺め



散策コースでは、当時の写真を何枚も見ることができます。

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他にも、昔の学生服(ほとんど日本のセーラー)の試着や

 

 

昔の韓国のおもちゃ体験コーナー、

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韓国固有の郷土信仰のお寺まで散策コースに組み込まれていました。

 

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インスタ映えするようなスポットも多く、ドラマのロケ地として利用されたこともあったそうです。

 

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古い建物をリノベーションして作られたゲストハウスや、

 

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植民地時代に作られた日本式の建物が、おしゃれなカフェになっているのも目にすることができます。

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百済病院




 

この道を歩きながら、歴史と未来を繋ぐのは現在なのだと改めて肌で感じました。

 

 

 

イバグキルはまだ完成したわけでなく、これからも新たな話が作られていくそうです。

 

そうして現在がいつかイバグ(話)になる日が来るのでしょう。

 

道を歩きながら、目で見て、耳で聞いて、生活と歴史を感じながら、

 

過去が現在と”同居”する不思議な道の先に地続きの未来が確かなものとして存在している気がしました。

 

 

イバグキルの近くにはチャイナタウンやテキサスストリートもあります。

 

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3回目にして、歴史と文化が共存する新たな釜山を発見することができました。

 

釜山は来れば来るほど好きになれる街ですね。

 

 

このイバグキルは釜山駅のすぐ隣なので、

 

釜山に行く機会があったらふらっと歩いてみてください。

  

思いがけずディープな釜山を目にすることができるでしょう。

 

 

日本大学訪韓団 #JENESYS2017 #韓国 #釜山  #イバグキル

韓国10日間、無料のプロジェクトがあります。

3月1日から10日まで、日韓文化交流基金が主催する「日本大学訪韓団第3団/日韓近現代史歴史探訪団」に参加してきました。

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2/28に東京都内で事前研修があり、日本全国から集まった大学生40人と韓国全土を旅をします。

 

 

ソウルで、ホームステイ中心の文化交流に重きを置いた第1団、第2団とは違い、

 

 

 

2・8独立宣言がなされた在日本韓国YMCAから始まる第3団の旅は、

 

 

主催の日韓文化交流基金でも初めての

 

 

「日韓のタブー史」をテーマとした旅でした。

 

 

韓国に残る日本植民地の痕跡を北上していき、最後は

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南北分断の象徴である板門店を訪れます。

 

 

 

内容もさることながら、

 

 

私がオススメしたいのは、何と言っても金銭面の手厚い支援で、

 

 

旅行費は全て無料、

 

 

出費は希望者のみ保険代と、贈答品代1000円 くらいで、

 

 

自由食の食費も基金からいただきました。(1食25000ウォンだからかなり余る。)

 

 

「わーお」というしかないこの待遇。

 

 

基金の9割の資金が外務省からの補助金だそうです。

 

いやはや、なんとまあ。

 

こそこそ一人分はいくらで……全員だと……と計算する学生もちらほらいました。

 

 

日本大学訪韓団の応募条件は、

 

①大学生であること

②一定の語学力(英語or韓国語)

③レポートを書く

 

書類選考のみで選ばれます。※詳しくはこちら 

 

 

 

面接もないので、地方の人も応募しやすいプロブラムです。

 

 

 

「日韓近現代史」というお堅いテーマでも、

 

 

無料となるとかなり参加するハードルは下がります。

 

 

そして、今回多くの大学生が多かれ少なかれ衝撃を受けたと思います。

 

 

短期留学を二回経験し、単なる文化交流に飽き飽きしていた私にもいい刺激になりました。

 

 

こういう気軽に参加できる、新しい視点のプログラムが、

 

日本の外務省の委託で行われているのに正直驚いたし、

 

 

多くの人に知られて、もっと気軽に、

 

政治や韓国が、

 

語られる場が増えたらいいなと思いました。

 

 

次回からは、ツアーで行った場所や韓国で遭遇したちょっとした事件を紹介していきたいと思います。

 

 

#JENESYS2017

 

『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』パク・ミンギュ著

韓国から帰ってきて、

 

 

気が向いたら勉強して、

 

 

気が向かなかったら本読んで、

 

 

三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』のような週休7日を過ごしました。

 

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韓国にプロ野球ができたのが1982年で、

 

 

韓国のプロ野球史上最弱の幻の野球チーム、三美スーパースターズ

 

 

心を奪われた少年の半生の話が、

 

 

このパク・ミンギュ著『三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』という本そのものです。

 

 

この本を読み終わった後、たまたま過労死の国家答弁のニュースを読み、

 

 

日本も三美に言わせれば

 

 

『プロ』という名の資本主義の病気にかかってるってことなんだなと

 

 

1人納得していました。

 

 

今の私はと言うと、

 

週休7日万歳と称賛しながら

 

 

資本主義からの独立から足を洗おうか洗わまいかを

 

 

悩もうか、まだやめておこうかを布団の中で決めかねているところです。

 

 

韓国ではIMF通貨危機

 

 

経済危機として1番深く心に刻み込まれているけれど、

 

 

日本経済もリーマンショックでえぐられたあと、

 

 

しばらく鬱状態だったと思います。

 

 

日本経済の数字が戻ってきてるという話は聞くっちゃ聞くけど

 

 

肌温度的にはまだまだシベリア気団みたいに冷たくて、

 

 

頼みの綱の東京オリンピックは風通しの良さそうなエンブレムみたいにスカスカで

 

北から真っ逆さまに降りてくる極寒の冷気からは守ってくれそうにもない。

 

 

それなのに陽気な3人のブラザーズが植え付けた鬱の根は、

 

 

7年前の塩水を吸い込んで、

 

 

なんだか、スカスカの輪っかも絡め取って行きそうな感じ。

 

 

 

こんな暇な大学生みたいなこと考えてなくても、

 

 

シンプルに

『働きすぎだわ』

『人生忙しくて休めてないわ』

っていうあなたには、

 

 

 

この本はぐさぐさ心の根っこに刺さっていくと思います。

 

 

 

IMFで疲れ果てた人々の背中を

 

 

『押す』んじゃなくて

 

 

『撫でて』くれた作品は

 

 

私たちの心も暖かい温泉で

 

 

根深い経済の肩こりがじわじわ消えるように

 

 

揉みほぐしてくれると思います。

 

 

 

 

 

 

 

パク・ミンギュは、いわゆる弱者の側に立ち、

 

 

それを社会批判を含む大げさなユーモアで

 

 

暖かに物語という形で包み込む人だと思います。

 

 

この本でも、ある少年の半生を描きつつ、

韓国の現代史というか、

韓国の空気史というのがデフォルトされつつも

 

リアルに描かれています。

 

 

 

韓国に滞在していた時、

 

「韓国の若者の悩みを知る、感じる作品を教えてください」と言っていた日本の青年がいて、

 

 

私は、パク・ミンギュの小説を読めば早いんじゃないかなって思いました。

 

 

その時は、日韓交流についての話だったと思うんだけど、

 

 

私がここまでパク・ミンギュの小説で笑って泣いて、

 

 

放心状態で毎回最後のページをめくり終えてしまうのも、

 

 

勝手に毎回作品にシンパシーを感じているからで、

 

 

今回は、三美を通して

 

シベリアの冷気にいち早く触れ、

 

厳しい冬を乗り越えた隣国の若者に

 

私は不思議な友情を感じているんだと思います。

 

 

 

だいたいのパク・ミンギュの本の主人公は悩んでいて、

 

そして、国関係なくだいたいの若者は悩んでいて、

 

 

それは、彼の緻密なマーケティング戦略の1つではなく、

 

 

彼なりの優しさが詰まっているからだと思います。

 

 

 

とりあえずこの本を読んで、

 

日韓交流って何だっけ。

あ、広島カープのことだ。

 

 

と思い、

 

三美スーパースターズ 最後のファンクラブ』に入ろうとと思たら、その日を

 

 

個人的で国際的な資本主義から独立記念日にしてもいいんじゃないかな。

 

 

人は健康のために息をしていた方がいいから。

 

 

 

PS.私は野球よりサッカーが好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

朝鮮学校の学芸会に行ってきたけれど……

先月の日曜日に、

 

 

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人の誘いを受けて東京朝鮮第一幼小中級学校の学芸会を見に行ってきました。

(その人は前日に牡蠣にあたり、腹痛のため結局ひとりで見にいったのですけど。)

 

 

私が、想像してたのは、もっとゆるくて、

 

やっとこさ形になった合奏とか、

 

手作り感のある大道具で、恥ずかしくて声の小さい演劇とか、

 

そういうのでしたが……

 

 

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大道具が綺麗で、荘厳で……

 

 

いやなにこれ……

 

 子どもたちの衣装もきらびやかで、とても羨ましい……

 

 

学芸会だよね??と思い、焦ってプログラムで確認したほどでした。

 

 

 

協賛の企業の広告がプログラムの後ろ4分の3を占めており、

 

東京の学校がそうなのか、この学校がそうなのかよくわかりませんが、

 

学芸会に広告がつくという、ど田舎からのカルチャーショックにやられました。

 

(私の学校ではそんなシステム自体なかったんだけど……)

 

 

 

 

 

 合奏や合唱、お遊戯、お芝居に加え、伝統舞踊や伝統楽器演奏が披露されたのですが、

 

それぞれがバラエティに富んでいて、見ていて飽きなかったです。

 

幼稚園生のお遊戯は可愛くって可愛くって、会場全体からため息が漏れ出ていましたし、

 

伝統楽器の演奏で聞くアニメ『美女と野獣』の主題歌は、不思議な音色でした。

 

 

 

舞踊部の小学生ながら、指先まで揃えられた踊りは、感心するしかなかったです。

 

 

 

一番びっくりしたのが、小学生のチャンゴのレベルの高さです。

 

朝鮮の太鼓であるチャンゴを文化体験でやったことがあり、

 

難しさは体で知っているつもりです。

 

逆手で反対側の太鼓の面を叩くのが特に難しく、

 

高速で右左と繰り返すと腕が絡まりそうなほど。

 

 

大人が苦戦する技を小学生が楽々とやってのけるのを目の当たりにし、口があんぐり。

 

チャンゴはリズムがとにかくいいので、後半は観客席でノリノリでしたけれど……笑

 

※参考までに。こんな感じでした。

長野朝鮮学校学芸会チャンゴ - YouTube

  

 

 

 

 

次々と披露される・散りばめられた伝統文化で

 

朝鮮学校が第一に掲げる『民族教育』の本気度がひしひしと伝わってきました。

 

朝鮮の伝統文化を一気に見て、二時間半でお腹いっぱいになりましたし。

 

 

 

ちなみに、発表は全部、朝鮮語でした。

 

演劇も、合唱も、全部が朝鮮語です。

 

日本語は、発表の題目のアナウンスとプロジェクターで表示される演劇のあらすじ、そして

 

私の隣に座っていたお母さんたちの「あらやだ、〇〇ちゃんかわいー」のみでした。

 

 

 

 

普段は韓国語に触れている私が、終始引っかかったのは、まさにこの『言葉』。

 

イントネーションがどうしても、朝鮮半島北部のイントネーションで、

 

韓国語というには少し遠い言葉でした。

 

 

 

学芸会で私が一番違和感に思ったのが、

 

朝鮮半島の統一を願う歌を、子ども達があどけない姿で歌っていること。

 

 

 

「統一」という単語を子どもたちが連呼する姿は、おそらく現在の韓国では見られないもの。

 

会場から送られる拍手に戸惑いながら、拍子しないと……と焦って拍手をしました。

 

 

 

 

 

 このことが学芸会からの帰り道もずっと引っかかっていました。

 

未来の象徴となる子ども達が、

 

おそらく将来日本で暮らしていくであろう子ども達が、

 

「輝かしい未来へ」というテーマのもと行われる学芸会で、

 

統一の歌を歌い、統一旗を手にしている。

 

 

彼らの済んだ瞳がより私の胸を締め付けました。

 

 

たくさん宿題を出された気がしました。

 

 

 

 

 

文化というものは、必ずあるある程度思想を含むし、

 

教育というのは、あらゆる意味で「中立」であることは不可能です。

 

 

 

おそらく、私が韓国で生まれ育った韓国人なら二時間半、会場に座りつづけることはできなかったでしょう。

 

 

日本人であるからこそ、味わえた空気だったことは間違いないです。

 

 

 

宿題を考えているうちに、朝鮮学校の理事長の言葉に疑問を抱くようになりました。

 

 

朝鮮半島”をルーツとした民族教育”

 

 

北でも南でもない”朝鮮半島”なのか、

 

 

北でも南でもある”朝鮮半島”なのか。

 

 

それとも、どちらか一方の”朝鮮半島”なのか。

 

 

 

先日、朝鮮学校に通ったことのある友人に疑問をぶつけてみましたが、

 

 

彼女の返事を聞いて、おそらく人によって答えがバラバラになるだろうなと感じました。

 

 

 

複雑な「在日」と朝鮮学校の宿題は、期限までに提出できそうもないです。

 

 

 

 

失恋と平昌

平和の祭典が終わり、

 

バイトのおかげで平昌と共に駆け抜けた17日間を、

 

0時を回りながら揺られた電車の中で考えました。

 

政治的と批判されながら開幕した開会式と、

 

振られた統一旗の数と、

 

選手たちと私たちが流した感動の涙。

 

言いたい小言はいくつかあるけれど、

 

私はこの大会を

 

平和の祭典を”戦争中”の国で行えたという奇跡として、

 

胸の中に刻んでおこうと思います。

 

 

 

一人パソコンに向かいながら缶チューハイを飲んでいる私。

 

ふっと思い出して、パソコンを開きました。

 

平和、を考え始めた昨年の夏に

 

活動報告書として書いた文章があります。

 

38度線に行って、こんなことを考えました、こんなことを学びました、って書かなきゃだめなのに、

 

いろいろ勢い余ってはみ出てる、かっこ悪い文章です。

 

でも、平和って多分きっとそんなもの。

 

 

かっこ悪くて、現実からはみ出ているもの。

 

そして、多分、私が愛してやまないものなんでしょうね。

 

あの10日間と同様、この17日間も振り返ってもいい思い出ばかり出てくるんですから。

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失恋〜ピースツアー2017に寄せて〜

 

  

その出会いは、ほとんど失恋でした。

 

愛しさと悔しさで半分半分の私が、

 

たった二時間、飛行機に乗っただけで、平和な日本に帰ってこられるのが、不思議でたまりませんでした。

 

あれは夢だったのか、現実だったのか。

 

 でもたしかに、雑な洗濯でヨレたTシャツも、

 

携帯の画面を埋め尽くす田舎の風景も、

 

最後がやけに鼻にかかった発音で呼ばれる私の名前の記憶も、

 

確実に、私が38度線から持って帰ってきたものの中にあるのです。

 

 

私は、このツアーで、平和を純粋に信じる心を失いました。

 

私が当たり前に過ごしてたはずの「平和」はハッタリであったのです。

 

私は、このツアーで、平和というものは、どこにでもあり、どこにもないものだということを知りました。

 

私たちの暮らす毎日に、火薬の残り香や、鮮やかな血がないだけで、

 

それが真の平和と呼べるのか、確かではありません。

 

しかし、一方でツアー中、地雷が埋まった山を背に子どもたちが校庭で遊んでいる姿を穏やかに感じることもありました。

 

民間人統制区域で育てた野菜は、1週間、私たちの命になりましたし、

 

私の韓国人の友達も、数年前38度線を守っていたことをインスタグラムで知らせてくれました。

 

 

 

私のスマホの中に夕焼けに染まる空とカメラの前を横切った原付バイクを収めた写真があります。

 

ドチャンリに到着した日に撮ったものです。

 

「アジアの田舎はどこもいっしょだな」と思いながら、シャッターを切りましたし、

  

今見てもそう思います。「これが私の地元だ」と言っても、

 

ベトナムの田舎だ」と言っても、

 

多分どちらも信じるでしょう。

 

そのあとの宿舎の周りを散歩した時も、同じ感想を持ちました。

 

ここの人たちも私たちと同じく各々“暮らして”いるのだと。

 

いつかの「懐かしい」に似た感情でした。

 

大学に歩いて通う今日の私が子猫をみて、

 

実家の猫を思い出すのとほとんど一緒だったのです。

 

 

 

もちろん、初めて経験したことや初めて知ったことも、沢山あります。

 

ゲートをくぐる時、軍人に止められたこと、

 

武装地帯には大自然が広がっていたこと、

 

その向こうの北朝鮮にも青々とした草原が広がっていたこと。

 

奇妙なクッションに座りながら農作業をしたこと。

 

ケーキの上に乗っていない生のブルーベリーを食べたこと、

 

ビビンバの具はなんでもありで、

 

田舎の小学生でも今はみんなスマホを持っていること。

 

意外と私、韓国語しゃべれたこと。

 

 

 

音楽の先生をしたのも、初めてでした。

 

ギターが弾けるから、と音楽教室でギターを教えることになりました。

 

当日まで段取りがよくわからなくて、

 

事前の打ち合わせの時は苛立つこともありました。

 

「子ども嫌いなのに。めんどくさいことを引き受けてしまった」

 

と内心思っていました。

 

でも、違いました。

 

始めてみると、子ども達はギターに興味津々で、

 

私の片言の韓国語に耳を傾けてくれました。

 

「音楽は国境を越える」

 

なんて無知なギター少年のようなことを私はもう言えないけれど、

 

人と人を繋げるくらいはできるんじゃないかと、

 

先日まで音楽に絶望していた私がまたそう思えたのです。

 

 

2年前、私は音楽を作るのが楽しくて仕方ありませんでした。

 

それはほとんど初めての両思いのようなもので、17歳の熱を帯びていました。

 

しかし、全ての恋はいずれ終わりを迎えます。

 

3年後、音楽が語れるものの限界を感じて、私はあれほど大事に抱えていたはずの、

 

でももう何も詰まっていない空っぽのギターを下ろしました。

 

 

そして、その2年後、分断を象徴するかのような土地で、

 

私は音楽に再会しました。

 

超えられない壁を感じたはずの音楽で、新しい人と繋がりました。

 

村で過ごした一分一秒が愛おしく、今では失敗さえ微笑ましく感じます。

 

しかし、時間というものは残酷に過ぎていき、

 

音楽と私がそうであったように、

 

形だけの別れであってもそれは確実にやってくるのです。

 

  

失恋は、別れだけが、悲しいのではありません。

 

その人のことをもうそれ以上知ることができないという

 

揺るぎない事実が含まれているから悲しい、というよりむしろ悔しいのです。

 

38度線は、確かな事実として半島を分断し、超えられない壁として存在しています。

  

そして、38度線から韓国を超え、私が暮らす国は分断に甘んじて、壁を壊そうとも、越えようともしません。

 

私たちが、北朝鮮の話を聞く時、それは恐ろしい共産主義国以外はなく、

 

例えば、壁の向こうに住んでいるソンミという女の子が

 

今日何を食べたか、何を食べたかったかというささやかな事実は、

 

到底知ることができないことなのです。

 

事実をそれ以上知れないということは、

 

失恋が多くの恋人たちに与えたように、

 

私たちに無力を与えます。

 

国がこんなに近く、戦争がこんなに近くにあったのに、知らなかったことが悔しい、

 

と同時に、知ることを拒まれた私たちは、もう彼らに別れを告げるほかに、方法はないのでしょうか?

 

 

 

愛や多くの人生は絶望と希望という曖昧なもの繰り返しでできています。

 

そして、私たちが生きる普遍的なはずの世界もその繰り返しなのだと思います。

 

平和があるという希望と戦争があるという絶望。

戦争がないという希望と平和がないという絶望。

 

あいまいなものが繰り返される世界で、私たちは出会いと別れを繰り返します。

 

平和と戦争と違って出会いと別れは私たち一人一人が選択し、行動するものです。

 

私が、この10日間で選択した出会いと別れ、そして抱えた愛と悔しさを胸に

 

次にどの出会いを選択するのか、今ドキドキしています。

 

私は、「選択しない」という選択肢を38度線に捨ててきました。

 

あの境界線が消えた時、地雷原が消えた時、スキップしながらその選択肢を拾いに行こうと思います。

 

私たち、東アジアで暮らす人々が真の「平和」ボケを選びたい時に選べるように。

 

 

 

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戦争を知らない私が知らない日本語

38度線平和活動には、地元のおばあさんたちの白髪染めというユニークな活動もある。

 

美容院に行くのも一苦労、自分で髪を染めるのは腕が回らなくてもっと大変、

 

でも、綺麗な髪でいたいというおばあさんたちのために、

 

学生たちが無料で白髪を染めてあげるボランティア活動だ。

 

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今回は白髪染めだけではなく、ネイルまでサービスし、

 

「こんなに綺麗になってどうしようかね〜〜」

 

と言って、ルンルンで帰っていく人がほとんどだった。

 

 

私も、地元の人たちとおしゃべりをしながら楽しく時間を過ごすはずだったが、その後も一日中複雑な気持ちになったのは、

 

 

聞き覚えのあるような、ないような、日本語を聞いてしまったからだった。

 

 

 

 

私を含めて日本学生二人、韓国学生一人の3人1組で、あるおばあさんの髪に染料をブラシで塗っていた。

 

おばあさんたちの話す韓国語は方言で、聞き取りずらかったため、

 

 

韓国人学生とおばあさんが楽しく今クールのドラマについて「あれがよかった」とか「あれは面白くなかった」と会話する横で、

 

 

言葉がわからない分、早く終わらせようと私は作業に集中していた。

 

 

 

 

するとある時突然、

「日本の学生もいるのよね?」

とおばあさんが韓国学生に聞き、

 

 

「はい、横にいる人たちがそうですよ」と韓国学生が答えた。

 

 

「ちょっと聞きたいことがあるのよ、日本の学生に。」「昔、学校で習った日本語の意味を知りたくて」とおばあさんが言うので、

 

 

 

「はい、なんでしょう?」と私は返した。

 

 

 

 

横にいた日本チームの友人とともにおばあさんの言葉に耳を傾けた。

 

 

 

 

次の瞬間、堰を切ったように言葉は流れ出て、

 

 

特徴的な語り口から、一瞬でそれが戦時中のものだとわかった。

 

 

 

次から次へと早口に出てくる日本語を、戦後半世紀以上後に生まれた私たちは全く聞き取れなかった。

 

「だいとうわ」が唯一理解できた単語だった。

 

 

全く分からなかったことへのショックと、初めて生で触れた大日本帝国の残骸に日本からきた学生は、言葉を失なってしまった。

 

 二人は戸惑いを隠しきれず、

 

「それは、昔の日本語で、私たちも正確にはわからないんですけどそれは……」と

たどたどしく日本語で答えた。

 

韓国人の学生も翻訳しきれずに、困っていると、

 

「まあ、わからないならいいわ」と

 

おばあさんは他のことに話題を変えてしまった。

 

 

 

 

 あとでこのことを振り返りながら、惜しいことをした、と思った。

 

もっと、当時のことを聞いておけばよかったと思った。

 

もう2度とこんな機会には恵まれないだろうと思った。

 

 

 

 

悔しがった次に、私は想像してみた。

 

 

 意味がわからないのに、あんなに長い文章を覚えさせられた教室を、想像してみた。

 

母国語が使えない朝鮮の学校を想像してみた。

 

 

私たちが知らない”日本”を想像してみた。  

 

 

おばあさんは、あの時、どんな気持ちで私たちに、質問したのだろうか。

 

 

彼女にとって、日本と聞いて一番に思い出したのが”日本”なら、

 

 

私たちは、その日本に私たちの記憶を重ねることに今回失敗したのだろう。

 

 

そのこともまた悔しかった。

 

 

 

 

私の知らない日本語は、硬くて鋭くて、胸に刺さってなかなか抜けない。

 

おばあさんの声色をしたその日本語は、きっと一生抜けることはないだろう。

 

その破片は思い出すたびに私の心臓の血の流れを乱し続ける。